政治学者 高橋 肇のブログサイト。 政治学を中心とした学術的なテーマを掲載。 その他のテーマは、たかはしはじめ日記へ。

 

Hajime TAKAHASHI's Politics

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2007
11/12
Mon
Category:政治学B(中京/2007秋)

政治学B(第7回/中京2007秋) 

自由主義国家と立憲主義

市場と政府
カール・ポランニーの議論
を手がかりに。
• 以下、カール・ポラニー『大転換』より引用。
大転換―市場社会の形成と崩壊大転換―市場社会の形成と崩壊
(1975/04)
吉沢 英成、カール・ポラニー 他

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「[19]世紀前半には、立憲制は禁じられ、神聖同盟が平和の名のもとに自由を抑圧した」(p.7)
「これにたいし[19世紀]後半には、再びまた平和の名のもとに、企業精神に富んだ銀行家たちによって立憲制が暴君たちに押しつけられた。」(p.7)
19世紀前半における
神聖同盟
と立憲制の禁止

19世紀後半における
立憲制の押しつけ

「企業精神に富んだ銀行家たちによって」
「このようにいろいろな姿で、しかも変動常なきイデオロギーのもとで-ときには進歩と自由の名のもとに、ときには王冠や教会の権威によって、ときには株式取引所や銀行の慈悲によって、あるいはまた買収や賄賂によって、道徳論や啓蒙的な呼びかけによって、またときには大砲や銃剣によって-同じ結果が生み出された。
すなわち平和が維持されたのだ。」(p.7)
「金融--これは影響力を与えるチャンネルのひとつであった--は、多数の小さな独立国家の政策決定にたいする強力な調整者の役割を果たした。貸付とその更新は信用にかかっており、その信用は行動のあり方にかかっていた。立憲政府(立憲制でなければ強い難色が示された)のもとでは、行動は予算に反映されたし、通貨の対外的価値は予算に対する評価と切り離しなかったから、債務国政府は、自国通貨の為替相場を注意深く見守り、そして予算状態の健全性に疑いを生じさせるような政策を避けるのが得策というものであった。」(p.17)
「ある国が金本位制を一度採用すれば、この有益な格率が強力な行動準則となった。そしてこれは変動しうる幅を最小に限定することになった。金本位制と立憲制は、新しい国家秩序への忠誠を象徴するこれら二つの制度を採用した多数の小国に、ロンドンのシティの声を伝える媒体であった。」(p.17)
「パックス・ブリタニカは、ときには重艦砲の不吉な威厳でその権勢を維持することもあったが、それより頻繁に、国際通貨の網の目の意図を適宜たぐりよせることによって、その座を保持したのであった。」(p.17)
国際的な金融が
各国の政策決定にたいする強力な調整者であった
「信用としての立憲政府」

立憲政府の行動は予算に反映され、予算に対する評価は通貨の対外的価値と不即不離の関係をもつ
パクス・ブリタニカのもとでの金本位制と立憲制
(19世紀半ば)

パクス・アメリカーナのもとでの為替相場制と立憲制
(20世紀後半)
「労働市場が労働者の生活をひどくゆがめるほど、いっそう強く労働者は声高に参政権を要求した。大衆政治の要求が緊張の政治的根源であった。こうした状況のもとで、立憲政治はまったく新しい意味を獲得した。」(p.302)
「それまでは、財産権の不法な侵害に対する法的保護は上からの専横的行為に対してのみ向けられていた。ロックの見解も土地および商業上の財産を越えるものではなく、王権の横暴な行為、たとえばヘンリー八世のもとでの教会領の没収、チャールズ一世のもとでの造幣局差押、チャールズ二世のもとでの大蔵省の「支払停止」等を排除することだけを目的としたものであった。ロックのいう意味で、政府を商業から分離させるということは、1694年のイングランド銀行創設の特許状において模範的なかたちで実現されていた。商業資本は王権に対する戦いに勝利していた。」(p.302)
「100年後には、商業的財産ではなく産業的財産が、国王に対してではなく大衆に抗して、保護されることになった。」(p.302)
「すでにモンテスキューが1748年に考え出していた権力の分立は、いまや大衆自身の経済生活を支配している権力から彼らを引離すために使われた。アメリカ憲法は、農夫・職人的環境のなかで、イギリスの産業的光景から事前に警告を受けた指導層によって作成されたものだが、それは経済領域を憲法の支配から完全に隔離し、それによって私有財産をこれ以上考えられないような保護のもとにおき、世界で唯一の法的基礎をもつ、市場社会を創出したのである。」(p.302)
「普通選挙制のもとにあるにもかかわらず、アメリカの有権者は財産所有者に対して無力であった。」(p.302)
アメリカ合衆国憲法と
連邦中央銀行の創設者としての
ハミルトン

以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
「アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton, 1755年1月11日 - 1804年7月12日)は、アメリカ合衆国建国の父の1人。政治家、憲法思想家、哲学者であり、アメリカ合衆国初期外交のリーダー。独立戦争の際には総司令官ジョージ・ワシントンの副官(砲兵将校、陸軍中佐)。」
「1787年のフィラデルフィア憲法起草会議の発案者。アメリカ合衆国憲法の実際の起草者。アメリカ合衆国憲法コメンタリーの古典『ザ・フェデラリスト』の主執筆者。古き英国の法思想「法の支配」に基づくコモン・ロー化した憲法を生み出した、立憲主義および保守主義の偉大な思想家である。司法による違憲立法審査権の制度の理論は、ハミルトンによる。アメリカ合衆国の初代財務長官。陸軍少将。連邦党の党首。1801年、米国最古の日刊紙ニューヨーク・ポスト紙を創業した。1804年、決闘で死去、49歳だった。」
「1776年3月14日、ニューヨーク植民地砲兵中隊を指揮する大尉に任命され、独立戦争に従軍、幾多の会戦に参加して軍人としても優れた才能を発揮した。1777年からワシントン総司令官の副官に任命され、中佐として軍務に奔走するかたわら、ヒューム、ホッブズなどの読書と研究に努めた。1779年12月から翌年の3月にかけて、独立運動の指導者に書簡をおくり、その中ですでに合衆国銀行設立の構想を立てている。1781年7月12日から4回にわたって連載された論文『大陸主義者』では、強力な中央政府樹立の必要を説いた。」
「軍務を解かれ1782年から弁護士開業を目指し、ブラックストーン、グロティウス、プッフェンドルフについて勉強する。4月18日から新聞掲載された『大陸主義者』の続編で、通商規制の必要を説く。7月22日にニューヨーク邦大陸会議議員に選出され、そこで大陸会議の課税権強化を提唱。」
「1787年3月ニューヨーク邦議会により憲法制定会議への代表として派遣され、9月17日にアメリカ合衆国憲法の草稿を作成し、ついで憲法草案に署名をする。10月27日からジェームズ・マディスン、ジョン・ジェイと協力して翌年5月28日までに『ザ・フェデラリスト』論文を執筆して、合衆国憲法批准を促進した。1789年9月11日、ワシントン内閣の財務長官に任命される。」
「1790年から1791年までにハミルトンによって連邦議会に提出された報告書は、《公信用》《未占有地》《蒸留酒税》《国立銀行》《貨幣鋳造所設立》《製造業》と実に多種多様。」
「ハミルトンは、17世紀初頭の古き英国の法思想にもとづき、国王なし、貴族なしの政体において、コモン・ローの精神「法の支配」を制度化できるよう、アメリカ合衆国憲法を起草した。アメリカにおける立憲主義の創始者である。アメリカ合衆国憲法は、コモン・ローの憲法典化であり、コモン・ロー化した憲法典の誕生であった。アメリカ合衆国憲法がジョン・マーシャルの判決(1803)を通じて司法の違憲立法審査権を「発明」したが、それはハミルトンが書いた『ザ・フェデラリスト』の第78篇その他の法理に依拠した。」
「ハミルトンのアメリカ合衆国への貢献は、憲法や政治制度ばかりでなく、新生の国家の財政/金融/貨幣/通商/産業政策の基礎を未来図とともに整備したことである。アメリカ合衆国経済にとって不可欠であった初の連邦中央銀行(1791~1811年)の設立と初のアメリカ合衆国造幣局の設置による初のドル硬貨の発行(1792年)は、ハミルトン一人の成果であったといってよい。」
「この倫理・道徳を国策の根本とするのは、ハミルトンがアメリカ合衆国の財政制度を創設・整備していく際にも、また独立戦争時の借金を全額額面どおり弁済する際にも(「公信用について第一報告書」、1790年1月)、貫いた。1792年の「財源制度の擁護Ⅲ」でハミルトンは「道徳と正義に関する確立しているルールは、個人と同様、国家にも適用される。よって…国家もまたその約束を守り、契約を果たし、各国民の財産権を尊重すべきある。そうしなければ、社会や政府に関係して、善と悪、あるいは正義と不正義を差別するすべての思考を終焉させる」と説いている。」
「信用としての立憲政府」

立憲政府の行動は予算に反映され、予算に対する評価は通貨の対外的価値と不即不離の関係をもつ
国際的な金融が
各国の政策決定にたいする強力な調整者であった
パクス・ブリタニカのもとでの金本位制と立憲制
(19世紀半ば)

パクス・アメリカーナのもとでの為替相場制と立憲制
(20世紀後半)
「これにたいし[19世紀]後半には、再びまた平和の名のもとに、企業精神に富んだ銀行家たちによって立憲制が暴君たちに押しつけられた。」(p.7)
「100年後には、商業的財産ではなく産業的財産が、国王に対してではなく大衆に抗して、保護されることになった。」(p.302)

「現代の暴君」としての大衆
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